2023/11/16 行事報告

亀岡市東本梅に残る後白河天皇ゆかりの【医王山楽音寺ツアー】を開催しました。

2023年10月15日(日)9時半~11時半

「東本梅町ふれあい祭り」の関連企画として東本梅町子ども育成会にご協力いただき、医王山楽音寺ツアーを実施しました。

長年大内区の皆さんがお世話をされてきた楽音寺。今回のツアーは今年度総代のお一人、野田幸秀さんが案内役を引き受けてくださり、当日は青野小学校の先生を含め約20人の町民の皆さんが2時間のツアーにご参加くださいました!

【ルート】

参道入り口集合~薬師堂~楽音寺庫裏(くり)でお話~下山

育成会会長 奥村さん、自治会長 野田典和さん、楽音寺総代 野田幸秀さん

参道の入り口は普段は鍵がかかっていて、勝手に入れなくなっています。

かなり傾斜の坂道。山登りのようですが参道は綺麗にされていて、丁寧にお世話をされていることを感じました。

犬不動。医王山楽音寺創建の縁起に白い犬の導きがあったそうです。

30分ほど登ると開けた場所に出ました。昔は山門があって、馬をとめる場所だったのではないかと言われているそう。
写真には写っていませんが、こわれた大きな水槽がありました。昔金魚が飼われていた(!)そうです。

歴代住職さんの墓標 
みんなでお参りしました。

さらに少し上がっていくと、昔は住職さんがお住いになっていた庫裏(くり)に到着しました。
楽音寺についての札もたっています。

ついたー!! とホっとしたのもつかの間、薬師堂は山頂にあるのでした。もう少し!

昔は住職さんのお子さんが毎日ここから通学されていたり、当時の同級生の方が子どもの頃普段からここまで遊びに来ていたお話しなどもお聞きし……やっぱり足腰の鍛えられ方が今とは全然違うと感じました。

さらに上がっていくと、やけに平らにひらけた空間が。
これは昔沢山あった(70ほどと伝えらえている)宿坊の跡
明智光秀の丹波進攻の際、園部城をなかなか攻略することが出来ず、その原因としてこの楽音寺が補給の拠点になっているということで、1577年にすべての建物が焼かれてしまったということらしいです。

後、元文年間(1736~41年)に再建された薬師堂

薬師堂内に並べられていた御本尊の薬師如来坐像を中心とした十二神将の再現イメージ

亀岡市ではここだけという裳階(もこし)という禅宗寺院の構造が用いられています。
経年劣化や自然災害の影響でも裳腰部分、屋根が落ちかけてきています。

金銭的にも修復が難しいこと、山の上にあって高齢の方がお参りや手入れができないなどの事情で、来年度に向けて建物を残し、すべて山の下へ移転されることになっています。

釣り鐘
菊のご紋が入っていたおかげで戦時中の供出を免れたそうです。
鐘楼がかなり傾いているため、撞くのは危険そうです。

昔むかしはこのお堂の前で盆踊り大会が開かれて、大内、八木、園部の辺りから若い人たちが集まり、婚活の場にもなっていたとか(^^)
50年前くらいの話かと思っていたら、70年以上前の話らしいのですが、電飾もないだろう時代の月の出る晩に人々が山上のお堂の前に集まって盆踊りをされている様子を想像すると、とても素敵な風景が想像されます。

最後までかなりの傾斜でした。下りは落ち葉で滑らないように気を付けて。

先ほど素通りした庫裏で、野田幸秀さんにお話しを伺いました。

よく手入れされている庫裏(くり)の懐かしい雰囲気の中で、お寺の事、住職さんのこと、医王山楽音寺についての縁起など色々なお話を伺いました。子どもたちにも分かるように優しくお話ししていただきありがとうございました!

今は枯れていますが、お庭には池もあったそうです。

11月19日開催の東本梅町ふれあい祭りにて、今回のツアーをもとに医王山楽音寺を紹介する展示を制作いたします。こちらもぜひご覧ください!(^^)!

【医王山楽音寺について】(立札より転記)

大内の集落の北方山腹にある楽音寺は、医王山と号し、元は天台宗に属していましたが、現在は本山修験宗の寺院となっています。

医王山縁起等によると、宝亀五年(774年)に創建され、その後平安時代終わり頃白河天皇が御病気平癒を同寺の本尊である薬師如来に祈願され快癒されたのでお堂を再建されました。そののち当区君谷の地に住まわれ、亡くなられてからは同山内の鶴頂陵に葬られ、さらに後白河天皇もここでなくなられ、同じ陵に葬られたと伝えています。

 天正五年(1577年)には、明智光秀の丹波進攻による兵火にかかり諸堂宇がことごとく焼失したと伝えますが、その後野々口西蔵豪淵僧都が小堂を再営し薬師如来坐像を安置しました。この像の光背や像底の墨書によると、元亀四年(1573年)七条大仏師宮内郷法印康清の作で、室町彫刻の典型的作例として亀岡市の指定文化財となっています。

また、寛永十三年(1636年)に鋳造された梵鐘の銘文によると、亀山城主菅沼定芳が復興させ、沙門良範がお堂の再建につとめたことがわかります。さらに元文年間(1736年~1741年)にも妙蔵阿闍梨がお堂再建につとめました。

 現在の本堂はこの時造営されたものです。方一門、一重裳階付宝形造桟瓦葺の仏堂で、裳階正面に軒唐破風を付けたものです。他にあまり類例を見ない構造形式であることから、これも市指定文化財となっています。

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